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第二話 届かない指先

Penulis: 白蛇
last update Tanggal publikasi: 2026-07-04 17:02:37

 『club Estrellaエストレージャ』のVIPルーム内、凜りんと理玖りくの間に、緊迫きんぱくした空気が漂っていた。

 幸い、山下はほどよく酔よいが回っているようだった。彩あやとの会話に夢中で、途切れることなく話し続けている。

 左側で上がる笑い声が、耳の中でくぐもったノイズになって反響し、凜は身体をぴくりと震わせた。

 だが、彩はときおり、睨にらむような眼差しを送ってくる。

 凜は慌てて話題を振る。

「黒瀬様はお仕事、何やってらっしゃるんですか?」

「IT」

「……凄いですね!」

 引き攣つった表情を無理矢理に崩して、大げさに手を叩いてみたが、返事はない。

「そ、そう言えば、この前ニュースでハッキング被害について話してました。やっぱり、ああいうのって大変なんでしょうね」

 理玖は一瞬眉を顰しかめたが、何も答えない。

――どうしよう……。玲奈も店長も、私に任せてくれたのに……。

 必死に話題を探そうとする凜を見ることもなく、ただ一人でグラスを傾けている。

 やがて凜の話題の引き出しが尽き、二人の間に沈黙が漂った。

 凜は理玖の服装を盗み見る。漆黒しっこくを思わせるスーツは、室内のわずかな光を吸い込むような、しっとりと深い艶つやを纏まとっている。

 身体の動きに寸分違わず追従するそのシルエットは、一目で特注品だと分かる。

 丁寧にアイロンが当てられたシャツの襟元えりもと、隙のないネクタイの結び目。

 隣に座る自分の借り物のドレスの生地が、まるで汚れ物のように思えて指先を丸めた。

 その様子を見かねた彩が、凜に合図を送った。場所を変われということだ。

「私、お手洗い失礼します」

 そう言って凜は席を立つ。

 VIPルームの引き戸を閉め、廊下の壁にもたれかかるようにして大きく息を吐く。

 息が詰まりそうだった。

 理玖が言い放った『赤の他人』という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 左耳にかかるように撫で下ろした髪に触れながら、凜は熱を持つ目元を必死に抑えながらトイレに向かった。

 鏡に映る自分の顔が、ひどくやつれて見える。

 まるでわずか十数分で何歳も歳を取ってしまったようだった。

――昔はもっと……。

 脳裏に蘇るのは、八年前の放課後の屋上。忘れようとしていたはずの思い出。

 生温かい風の中、珍しく少しだけ緊張した顔で、理玖が真っ直ぐに凜を見つめていた。

『……お前といると、帰りたくなくなる』

 そっと頬に触れる、不器用で熱い指先の感触。

 あの時、彼が見せてくれたのは、壊れ物を扱うような優しい瞳だったはずなのに――。

 その時、記憶を遮さえぎるように、トイレに先輩キャストの一人が入ってきた。

 凜は思い出を追い出すように頭を小さく振って、人数分のおしぼりを手に、VIPルームへ戻る。

 足が鉛のように重い。半ば蹌踉よろめくようにして、引き戸の持ち手にしがみ付いた。

 音を立てないよう息を殺して引き戸を開けると、彩が山下と理玖の間に座り、場を盛り上げていた。

 理玖が笑いを漏らしたのを見て、凜の胸がずきりと痛む。

 山下の隣に腰を下ろし、新しいおしぼりを取り出す。加熱されすぎた綿の熱気が、震える指先をじりじりと焼いた。

 山下に手渡そうと腕を伸ばしたとき、ふいにその太い指先が、凜の手に粘り気を伴ともなって重ねられた。

「お、凜ちゃん、手が冷えちゃってるよ。おじさんが温めてあげようか」

 下卑げびた笑みを浮かべた山下が身を乗り出し、凜の手を強引に包み込む。

 突然の出来事に、凜の喉から乾いた短い悲鳴が漏れ、身体が強張った。

 その刹那せつな――。

 どんっ、と鋭く重い音が響いた。

 理玖が、手にした重厚なロックグラスをローテーブルへ叩きつけたのだ。

 割れんばかりの衝撃音に、山下が跳び上がるようにして凜の手を離す。

「く、黒瀬くん? いきなりどうしたんだい」

「……いえ。少し、手が滑っただけです」

 理玖の声は地を這うように低く、VIP室そのものを凍らせるようだった。

 グラスを握る彼の指先は白く強張り、鋭い眼差しで凜を射抜いている。

 引き攣つった空気の中、凜は震える手で、理玖へおしぼりを伸ばした。

「黒瀬、様……」

 喉の奥から振り絞るようにして呼んだ名も、空間を支配する圧力に押し潰された。

 差し出したおしぼりは、宙に浮いたまま行き場を失う。

 理玖の視線が、ほんの一瞬だけ、凜の指先に落ちる。その骨張った喉仏が一度だけ、深く上下に動いたのが見えた。

「……無視、されると困ります」

 気付けば、言葉が零れていた。

 理玖の視線が、ゆっくりとこちらを向く。

「嫌われてるのは、分かってます。でも……仕事しようとしてるんです。ちゃんと対応させてください」

 視線に耐えられず、語尾は消え入りそうだった。

「いいわよ。私が渡すから」

 取り繕つくろうように彩がひょいとおしぼりを取り、理玖へと差し出す。

「どうぞ、黒瀬さん」

 空間を凍らせるような沈黙の中、理玖は彩からおしぼりを受け取った。

 だが、その冷ややかな双眸そうぼうは、まっすぐに凜を射抜いている。

 そこには、かつての温もりなど一欠片もなかった。路傍ろぼうの石ころを見るような、底冷えする視線。

――当然、や。あんな酷いことして、許されるなんて、思ってへん。けど……。

 心の中で零れた京都弁は、涙のように熱を帯びて喉を焼いた。

 手のひらを膝ひざの上で強く握り締める。

 それから、三人の会話は全く耳に入ってこなかった。

 ときおり曖昧な相槌あいづちを打ち、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけだった。

 気付けば、山下と理玖が帰り支度を始め、席を立っていた。凜も慌てて席を立ち、追いかける。

「ご来店、ありがとうございました」

 店長と彩が二人に向かって頭を下げる。凜も倣ならって会釈えしゃくした。

 山下は「また来るよ」と手を振るが、理玖は一度も振り返ることなくエレベーターに乗り込んでいく。

――きっと、もう二度と会えない。だから……。

 喉元まで出かけた言葉を遮さえぎるように、エレベーターの駆動音が静寂に反響した。

「凜ちゃん、ちょっと裏に来て」

 凜の思考を、彩の声が断ち切った。

 早足で待機室に向かう彩を追いかけようとして、足が縺もつれる。

「あのさ、凜ちゃん。まだキャストとして日が浅いから大目に見たいけど、あれはプロとして失格よ」

 彩の鋭い声が、耳の奥で硬く弾けた。

「いきなり触られてびっくりしたのかもしれないけど、悲鳴を上げかけるなんて以もっての外ほかよ。

 それに、その後の言葉は何? 凍り付くような空気作ってどうすんの。

 ここは男の人に夢を見せる場所。あなたの安っぽいお高くとまったプライドなんて、お客様には関係ないのよ」

 凜はただ拳を握り締めて、ひたすらに謝ることしかできなかった。

――うちのせいで、『club Estrellaエストレージャ』の看板に泥を塗ってしもた……。

「あなた、本当は黒瀬様と知り合いなんじゃないの?」

 彩の問いかけに、凜の心臓がどきりと鳴った。

「……高校の同級生です」

「それだけじゃないように見えたけど?」

「一度同じクラスになっただけで……」

――嘘だ。

 彩は深く溜息ためいきを吐ついた。

「……分かった。話したくないなら、無理に聞き出すつもりはない。

 でもね、向こうに座っている相手が誰だろうと、その扉をくぐった時点で相手はお客様、あなたは接客する側よ」

 静かな声だった。

 けれど言葉は鋭く、凜の胸に突き刺さった。

「知り合いだろうが、元恋人だろうが、ここで働くなら、面倒な事情は胸の奥にしまって笑いなさい。みんな、そうやって歯を食い縛ってるの」

 凜は何も言えず、ただ深く頭を下げた。

「……はい。すみませんでした」

「店長には言わないでおいてあげる。今日はもう帰りな」

 そう言い残し、彩は踵を返した。

 ハイヒールの音が次第に遠ざかり、待機室には再び静寂だけが残る。

 凜はドレスを脱ぎ、私服のTシャツとジーンズに着替えた。

 裏口から逃げるようにして外へ出ると、夜風が濡れた頬を冷たく撫でていく。

 凜は、ゆっくりと空を見上げた。

 滲にじむ視界のどこにも星の光はなく、ただビルの窓から漏れる照明と、ネオンの温度のない瞬またたきだけが凜を見下ろしていた。

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