Masuk 『club
幸い、山下はほどよく
だが、彩はときおり、
「そ、そう言えば、この前ニュースでハッキング被害について話してました。やっぱり、ああいうのって大変なんでしょうね」
理玖は一瞬眉を――どうしよう……。玲奈も店長も、私に任せてくれたのに……。
必死に話題を探そうとする凜を見ることもなく、ただ一人でグラスを傾けている。やがて凜の話題の引き出しが尽き、二人の間に沈黙が漂った。
凜は理玖の服装を盗み見る。身体の動きに寸分違わず追従するそのシルエットは、一目で特注品だと分かる。
丁寧にアイロンが当てられたシャツのその様子を見かねた彩が、凜に合図を送った。場所を変われということだ。
「私、お手洗い失礼します」 そう言って凜は席を立つ。VIPルームの引き戸を閉め、廊下の壁にもたれかかるようにして大きく息を吐く。
息が詰まりそうだった。理玖が言い放った『赤の他人』という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
左耳にかかるように撫で下ろした髪に触れながら、凜は熱を持つ目元を必死に抑えながらトイレに向かった。鏡に映る自分の顔が、ひどくやつれて見える。
まるでわずか十数分で何歳も歳を取ってしまったようだった。――昔はもっと……。
脳裏に蘇るのは、八年前の放課後の屋上。忘れようとしていたはずの思い出。 生温かい風の中、珍しく少しだけ緊張した顔で、理玖が真っ直ぐに凜を見つめていた。『……お前といると、帰りたくなくなる』
そっと頬に触れる、不器用で熱い指先の感触。 あの時、彼が見せてくれたのは、壊れ物を扱うような優しい瞳だったはずなのに――。 その時、記憶を凜は思い出を追い出すように頭を小さく振って、人数分のおしぼりを手に、VIPルームへ戻る。
足が鉛のように重い。半ば音を立てないよう息を殺して引き戸を開けると、彩が山下と理玖の間に座り、場を盛り上げていた。
理玖が笑いを漏らしたのを見て、凜の胸がずきりと痛む。山下の隣に腰を下ろし、新しいおしぼりを取り出す。加熱されすぎた綿の熱気が、震える指先をじりじりと焼いた。
山下に手渡そうと腕を伸ばしたとき、ふいにその太い指先が、凜の手に粘り気を「お、凜ちゃん、手が冷えちゃってるよ。おじさんが温めてあげようか」
どんっ、と鋭く重い音が響いた。
理玖が、手にした重厚なロックグラスをローテーブルへ叩きつけたのだ。 割れんばかりの衝撃音に、山下が跳び上がるようにして凜の手を離す。「く、黒瀬くん? いきなりどうしたんだい」
「……いえ。少し、手が滑っただけです」 理玖の声は地を這うように低く、VIP室そのものを凍らせるようだった。 グラスを握る彼の指先は白く強張り、鋭い眼差しで凜を射抜いている。 引き
理玖の視線が、ほんの一瞬だけ、凜の指先に落ちる。その骨張った喉仏が一度だけ、深く上下に動いたのが見えた。
「……無視、されると困ります」
気付けば、言葉が零れていた。理玖の視線が、ゆっくりとこちらを向く。
「嫌われてるのは、分かってます。でも……仕事しようとしてるんです。ちゃんと対応させてください」 視線に耐えられず、語尾は消え入りそうだった。「いいわよ。私が渡すから」
取り だが、その冷ややかな
――当然、や。あんな酷いことして、許されるなんて、思ってへん。けど……。
心の中で零れた京都弁は、涙のように熱を帯びて喉を焼いた。 手のひらをそれから、三人の会話は全く耳に入ってこなかった。
ときおり曖昧な気付けば、山下と理玖が帰り支度を始め、席を立っていた。凜も慌てて席を立ち、追いかける。
「ご来店、ありがとうございました」
店長と彩が二人に向かって頭を下げる。凜も――きっと、もう二度と会えない。だから……。
喉元まで出かけた言葉を「凜ちゃん、ちょっと裏に来て」
凜の思考を、彩の声が断ち切った。 早足で待機室に向かう彩を追いかけようとして、足が「あのさ、凜ちゃん。まだキャストとして日が浅いから大目に見たいけど、あれはプロとして失格よ」
彩の鋭い声が、耳の奥で硬く弾けた。「いきなり触られてびっくりしたのかもしれないけど、悲鳴を上げかけるなんて
凜はただ拳を握り締めて、ひたすらに謝ることしかできなかった。
――うちのせいで、『club「あなた、本当は黒瀬様と知り合いなんじゃないの?」
彩の問いかけに、凜の心臓がどきりと鳴った。 「……高校の同級生です」 「それだけじゃないように見えたけど?」 「一度同じクラスになっただけで……」 ――嘘だ。 彩は深く
「知り合いだろうが、元恋人だろうが、ここで働くなら、面倒な事情は胸の奥にしまって笑いなさい。みんな、そうやって歯を食い縛ってるの」
凜は何も言えず、ただ深く頭を下げた。「……はい。すみませんでした」
「店長には言わないでおいてあげる。今日はもう帰りな」 そう言い残し、彩は踵を返した。 ハイヒールの音が次第に遠ざかり、待機室には再び静寂だけが残る。凜はドレスを脱ぎ、私服のTシャツとジーンズに着替えた。
裏口から逃げるようにして外へ出ると、夜風が濡れた頬を冷たく撫でていく。凜は、ゆっくりと空を見上げた。
理玖のスマートフォンに表示されていたのは、白川紗夜の名前だった。「黒瀬です」『会見、見たわ』「そうか」 しばらく紗夜は何も言わなかった。『……多少は申し訳ないことをしたと思ってるのよ』「なんの話だ?」『今、間違えてあなた宛てにメールを送ってしまったの。保存するなり、削除するなり、好きにしてくれて構わないわ』 紗夜はそれだけを言い残して一方的に通話を切った。 理玖はすぐにメールフォルダを開いた。 紗夜から送られてきたメールを確認する。 タイトルも本文もないメールには、いくつかのやりとりの履歴ファイルだけが添付されていた。 その一つを開く。 日付は、堂島尊が紗夜を連れてKWSを訪れる数日前だった。『近いうちに、KWSを買収する計画がある。君達に損はさせない。手を組まないか?』『どういうこと?』『俺は、KWS社長の不祥事を握っている』『それで? うちに何をしろって?』『何もしなくていい。KWSに君達を紹介する。あとは契約を進めてくれればいい』 次のファイル。『あんたのとこの山下って男、まさか何かしたんじゃないでしょうね』『余計なことまでしたなら俺は知らん』『余計なことって何よ』『俺が頼んだのは、KWSの信用を落とすところまでだ。白川に実害を出せとは言ってない』『何させたっていうのよ? お陰でこっちは復旧作業で大損だわ』『君が知る必要はない』 日付を見ると、白川のシステムが復旧した翌朝だった。 そして、三つ目。『KWS買収の話、私たちも乗せなさいよ。損失分補填させてもらうわ』『勝手なことするな。全て終わったら、損失分は補填させてやる』 四つ目は、堂島尊の名刺の画像データだった。 余白には整った字で携帯電話番号が書き込まれている。 理玖が目を見開く。「…&hellip
凜の病室を出た理玖は、ナースステーションの前を通りかかった。 ふと足が止まる。――凜がまたどこかに行ってしまわないよう、見張ってもらうか? そんな考えが頭を過った。 一瞬立ち竦み、頭を小さく振る。――俺は何を疑ってるんだ。――凜は『約束する』って言ってくれただろうが。 再び歩き出して、病院を出た。 車に乗り込んだところで、どっと疲れが押し寄せてきた。 シートの背もたれに体重を預けて、大きく息を吐き出す。 フロントガラスから差し込む太陽の光が目に沁みる。――そうだ、高遠に連絡しないとな。 スマートフォンを取り出し、着信履歴から希美に折り返す。 数コールが鳴って、希美が出た。『社長、奥様は見付かりましたか?』「ああ、お陰様で見付けられた。しばらく入院することになりそうだが……」『それなら良かったです』 希美の声に、疲労が滲んでいるように聞こえた。「株の件はどうなった」『……非常にまずい状況です』「買いが止まらないってことか?」『そうです。ただ、買いを入れている口座の一部が分かりました』「誰だ?」『堂島電気株式会社です』「なんだと……?」――堂島尊。 凜と結婚してから、何かある度にその名前が付き纏っている気がする。 パーティー。 白川ホールディングスとの橋渡し。 そして今回。――本当にただの偶然か?「売りが増えた理由は分かっているのか?」『……恐らくですが、社長の奥様の件です。あのアカウントの投稿が影響しています』 理玖は顎を手で押さえて考え込んだ。――流石にタイミングが良すぎないか? 白川の件が片付いた直後に、今度は凜の過去。
――全部、理玖に知られた?――八年前のことも、あの子のことも……?――それなのに、どうして……。 溢れ出てくる涙の理由が、自分でも分からなかった。「うち、理玖の傍におったら、迷惑かけてまうから……」「何言ってるんだ……。夫婦だろ、俺達」 理玖の声はひどく掠れていた。「うちが、ずっと隠してたから……」 きちんと話そうと思うのに、嗚咽が混じって言葉が続かない。 理玖がゆっくりと首を振った。「俺が聞かなかったからだ。お前は俺のこと聞いてくれたのにな」 二人の間に沈黙が漂った。 凜は手で目元を拭う。「どこまで聞いたん……?」 理玖は一度口を開きかけて、閉じた。 ゆっくりと目を閉じて話し始める。「堂島尊との婚約、凜の義母。それから……俺達の子のことも」――ほんまに全部や……。 凜は俯いて、シーツを握る自分の手を見つめる。「……そっか」 何を言えばいいか分からなかった。「凜」 理玖の呼び掛けに、視線だけを上げる。「Estrellaで再会してからも、俺はお前を何度も傷つけた。八年前の事情を知らなかったからって、許されることじゃない」「そんな……理玖が悪いわけちゃう」「それでも、言ってはいけないことを言った」 理玖は視線を落とした。 凜はそっと手を伸ばす。 指先が肩に触れたところで、理玖のシャツが湿りを帯びていることに気付いた。――ずっと探してくれたんや……。「あのね、理玖。最初、辛くなかったって言ったら嘘になるけど&hel
車のサイドウインドウをノックされる音で、理玖は目を覚ました。「あのー、そこで寝られると困るんですけど」 コンビニのスタッフが眉を顰めて立っていた。 理玖は跳ねるように身体を起こす。「すまなかった。すぐに移動する」 エンジンをかけ、コンビニの駐車場を出る。 フロントガラスの向こうは、昨夜とは別の街のように明るかった。――寝すぎた……! コンソールパネルに表示された時刻を見ると、九時半を回っていた。 歩道に視線を配りながらも、津久井浜駅を目指す。 しばらく進んだところで、スマートフォンが鳴った。 理玖はハンズフリー通話のボタンを押す。『社長、大変です』 希美の声が車内に響いた。「今運転中だ。後にしてくれ」『KWS株に、異常な買いが入っています』「……何?」『市場が開いてから、まとまった買い注文が続いています』「誰が買ってる」『まだ分かりません』「どのくらいだ」『通常の出来高じゃありません。一度戻ってください』 凜と会社。 理玖は奥歯を噛み締めた。――だが、俺は『もう二度と手放さない』と誓っただろうが……。「勝手を言ってるのは分かってる。だから、高遠。……頼む」 一拍、沈黙が落ちた。 そして、小さく息を吐く音が聞こえた。『早く終わらせて帰ってきてください。一つ貸しですよ』 希美が通話を切った。「……助かる」 零れた言葉が、ロードノイズに掻き消える。 アクセルを踏む足に力が籠もる。 津久井浜駅前に着いた時、時刻は十時に迫っていた。 理玖は車を降りるなり、施錠を確かめることもせずに駆け出した。 コンビニに入り、店員に事情を話す。
理玖が津久井浜に着いた時には、午前二時を回っていた。 駅前の駐車場に車を停め、駅に駆けた。 人通りはなく、いくつかの街灯が点っているだけ。「凜!」 駅舎に向かって叫んでも、返ってくるのは反響した自分の声だった。 理玖はスマートフォンで津久井浜駅周辺の地図を表示する。――コンビニ……。 駅からほど近いコンビニなら、何かを買っているかもしれない。 そう思い立ち、理玖は走り出した。 店内に客の姿はなく、アルバイトらしき店員が商品棚をぼんやりと眺めていた。「すいません。妻を探しているんだが」 スマートフォンを取り出したところで、凜の写真を持っていないことを思い出した。 服装や髪型、背格好。思いつく限りの特徴を伝えたが、店員は「見てないです」と首を振るだけだった。「他に、今営業している店はないですか?」 店員はわずかに考えて、「ないですね」と返す。「分かりました。ありがとうございます」 理玖はコンビニを飛び出し、海の方へ駆け出していった。――なんでこんな場所に。 そう問いかけるほど、嫌な想像が胸の中で渦を巻く。 そのたびに、菜央が凜から受け取ったというメッセージを思い出す。『治療費は絶対なんとかするから』――だったら、死ぬつもりじゃない。――そうだろ、凜。 細い路地を抜けると、堤防が見えてきた。「凜!」 深夜であることなんて考える余裕はなかった。 スマートフォンのライトを頼りに波打ち際へ寄る。 どれだけ目を凝らして周囲を見渡しても、ただ暗闇が広がっている。 理玖は波打ち際に沿って歩き出した。 やがて足元が砂に変わった。だが、どれだけ歩いても人影は見えない。 革靴に湿った砂が入り込み、擦れた踵が痛みだす。「凜……」 何度も名前を叫んだ喉が|枯《か
希美への通話を切った後、菜央から着信が入っていたことに気付いた。 時刻を確認する。 菜央との通話を終えて凜のバイト先の店長と話している頃だった。 すぐに折り返す。 二回コール音が鳴り、菜央が出た。「何か分かったのか」『ちゃうわ!』 スピーカーから響いた菜央の怒号に、一瞬スマートフォンを取り落としそうになる。「……何を怒ってるんだ」『凜が出ていったのって、あのアカウントの投稿が関係してるんやろ』「……恐らく」『恐らく? あんた、うちが凜と最後に電話した時、あの子なんて言ったか分かってんのか!』「なんと言ったんだ……?」『理玖が何とかしてくれるって言ってるから大丈夫って、そう言ったんやで!?』 返す言葉が出なかった。『それで安心したうちが馬鹿やったわ』「……すまない」 沈黙が流れる。 やがて、嗚咽を堪えるような声が聞こえてきた。「……菜央、凜が行きそうな場所に心当たりがあれば教えてほしい」『あの子がどうやって、どんな思いで東京に来たか知ってる?』「堂島との結婚式を蹴って、逃げてきたって。菜央に手伝ってもらったとも聞いた」『……それだけか?』「ああ」『なんで堂島の婚約を受けたか、聞いてすらないんか?』「……ああ」 スピーカーの向こうで、菜央が奥歯を噛み締めるような音がした。『あんた、凜と結婚して、これまで何してたんや』「凜が生活に苦労していることを知った。だから、俺にできることはしてきた――」『だから過去なんてどうでもいいって!? なんであの子が堂島なんかの婚約受けたと思って……』 菜央の最後の言葉は、嗚咽に混じって消えた。